ジュハは自分がある日、ロバが死にかけ、日照り続きで、市場の物が値上がりするという困難な事態にもかかわらず、何が何でも神に感謝すると心に決めた時のことを語っています。まもなく試みの時が訪れ、畑を耕していると、何かのトゲが靴を貫いて足に刺さりました。あまりの痛さに叫びながら片足で跳ね回った後、彼は思い出してこう言いました。「神よ、感謝します。駄目になったのが新しい靴ではなく、古いものだったことを。」
なおも畑仕事を続けていると、今度は砂嵐がやってきて、ばったりと地面に叩きつけられました。嵐が治まった時、彼はこう思いました。「大抵は良い天気であることを神に感謝しよう。砂嵐なんてめったに来ないのだから!」
彼は財布を下に置いて、再び畑を耕し始めましたが、そこには新しいロバを買うために貯めておいたお金が入っていました。すると通りがかりの泥棒にその財布を盗まれ、ジュハは懸命に追いかけたにもかかわらず、相手を捕まえることができませんでした。ハアハアと息を切らしながら、彼はこう自問しました。「今は何に感謝できるだろうか?」 何も思いつかなかったので、また畑仕事に戻りました。
まもなく一人の船乗りがやって来て、彼に言いました。「私は船乗りになるまで、あなたから教えを受けていました。大波で船が転覆しかけるという恐ろしく危険な目に遭った時、どんな状況でも感謝を捧げるようにとあなたから教わったことを思い出しました。そこで感謝を捧げると、命が助かり、そのことを大いに感謝しています。それであなたに、ささやかな感謝のしるしを贈りたいのです。」 贈り物を開けたジュハは、そこに盗まれたのとまったく同じ額のお金が入っていることに気づきました。「お金がなくなったかと思えば、同じ日の一時間以内に返って来た! 何と素晴らしいことか! 神は恵み深い!」
もう少し畑を耕した後で、ジュハはひどく疲れて、大きな樫の木の下で休みました。うとうとと居眠りをしかけていると、ふとスイカ畑に気づいて、こう考えました。「なぜ大きなスイカがあんな小さなつるに実って、巨大な樫の木に小さなどんぐりが実るのだろう。逆ではないのか? 大きな実は大きな木に、小さな木の実は小さなつるに実るべきだ‥‥。」 すると頭の上に一つのどんぐりが落ちてきて、物思いから覚めました。そして突然に悟ったのです! 「神よ、あなたが私よりもずっと賢い方であられることを感謝します。大きな木にスイカがなって、それが頭の上に落ちていたなら、自分は今頃死んでいたことでしょう。」
一日を終えてみると、彼には感謝すべきことが沢山あったのです。
インドのアッサム州にも、自分のいる地域で30年間木を植え続けてきたジャダブ・パイェンという人がいます。ブラマプトラ川流域には木があまりないため、毎年洪水が発生して、農作物や家屋に多大な損害がもたらされ、暮らしを脅かしてきました。ジャダブは木を植えることによって、荒れ果てた島を生まれ変わらせようと決意し、今ではその一帯が、ニューヨークのセントラルパークよりも広大な550万平方メートルを超える森林となっています。 この森林は地域に大きな益をもたらしました。農業が再開し、その地域での洪水はなくなり、サイや象や虎などの野生動物が森に住み着いています。そして今、ジャダブには次の夢があります。すべての学校のカリキュラムに環境科学が組み込まれ、生徒たちが皆、木を植えて世話するようになることを願っているのです。 ジャダブがこれまでしてきたことは、簡単ではありませんでした。長年、欲深い密猟者や伐採者、腐敗した政治家らの脅威にさらされてきたのです。それでも、彼はこう語っています。「これが自分にとって何の得になるかは分かりませんが、木を植えていると幸せなんです。一生やり続けますよ。」 同じように世界を変えた人に、ケニア出身のワンガリ・マータイがいます。彼女は環境回復と地域開発の活動によって、ノーベル平和賞を受賞しました。 ワンガリは、十代の時に通っていたミッション・スクールで、レジオ・マリエ会の活動に活発に携わりました。レジオ・マリエは、地域で農業プロジェクトを行っており、そのモットーは「同胞に仕えることによって、神に仕える」というものでした。彼女は20代初めに、奨学金を得てアメリカのピッツバーグ大学で学び、そこで会った環境保護活動家らが市から大気汚染をなくそうとしているのを見て、彼らの取り組みによって、とても意義のある結果がもたらされていると感じました。私自身、当時のピッツバーグで子ども時代を過ごしたので、確かに空気の質がかなり改善したと証言できます。 ケニアに戻ったワンガリは、女性の生活状況の改善に尽力しました。グリーンベルト運動を設立したのは、女性たちが土着の木の種から苗木を育てることによって、自活できるよう助けるためでした。このプロジェクトの素晴らしいところは、シンプルであることです。その著書『Unbowed(邦題:へこたれない UNBOWED)』で、彼女はこう語っています。「林務官や女性たちに話したことですが、木を植えるのに卒業証書は必要ありません。」 グリーンベルト運動は、ノルウェー森林協会などから国際的な協力を得て大いに成功しました。また、15ヶ国以上から視察団が来て、砂漠化、森林減少、干ばつ、飢饉と闘うために、どうすれば自国で同じようなプロジェクトを実施できるか、学んでいきました。 これまでに何百万本もの木が植えられており、さらに、この運動がきっかけで、国連の「10億本植樹キャンペーン」など数多くの取り組みが生まれてきました。 でも、あなたや私にとって、「森林再生」は何を意味するでしょうか。ほとんどの人は、めったに木を植えることがないとしても、それがすべてではありません。世界をより良い場所にするために、自分にできることをするのが大切なのです。その第一歩は、自分にとっての「木」とは何かを知り、次に、それを大事に育てることです。 イエスだったら、それをこんなふうに言われたかもしれません。「天の国は、ある人が、不毛の荒れ地に幾つもの木を植えに出かけて行くようなものだ。それが育つと、いずれ広大な森となって、地を豊かにし、多くの実をもたらす。」 Text adapted from Activated magazine. Used by permission.
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人生が激しく揺さぶられているように感じ、どうやって今日一日を乗り切れるかさえ分からないという経験はあるでしょうか。もしそうなら、1798年、ロンドン南西部のキュー王立植物園に植えられ、今も立派な姿を見せている、高さ16メートルのターナーズオークというカシの木に勇気づけられることでしょう。
1980年代、この木は弱々しく、いずれ枯れそうな状態でした。そして、1987年10月16日、グレートストームと呼ばれる大嵐がイギリスやフランス、チャンネル諸島を襲いました。それは1703年の大嵐以来、イギリスを襲った最悪の嵐と言われ、たった1時間の間にイギリス南部で1500万本もの木がなぎ倒されたのです。そのうちの一本が、このターナーズオークでした。強風で、浅く張っていた根もろとも地面から持ち上げられ、激しく揺さぶられて、また地面に落とされました。まるで、巨人の手がワイングラスを持ち上げたかと思うと、それをテーブルに勢いよく戻したかのように。 樹木園の責任者トニー・カークハムは、家族の一員を失ったかのように感じたそうです。「私は途方に暮れました。ずっと世話をし続け、慣れ親しんできた木がいくつも地面に横たわっているのですから。」 回復の望みはあまりないものの、トニーは仲間の樹木医たちと共に、この大きなカシの木を埋め戻し、支柱を施しました。
それから3年後、驚いたことに、木がこれまでになく健康な状態になった時、彼らは気づきました。以前は沢山の人に踏まれ続けてきたことで、根元の土が固くなってしまい、十分な空気や水を得られなくなっていたのだと。嵐によって根元の土が緩んで隙間ができたため、また元気を取り戻したのです。
大嵐から30数年が経ち、ターナーズオークは3分の1ほど樹高が伸びたばかりか、世界の樹木管理のやり方に影響を与えてきました。たとえば、土を砕いて、酸素、窒素、栄養素が根に届きやすくする機器の開発などです。 大嵐のさなかにある時には、そこから何の良いことが生まれるのか分からないかも知れませんが、嵐が止んだ時、新たな命が始まります。困難のさなかにある時には、その理由が分からないし、「木を見て森を見ず」の状態になることがよくあります。でも、神が良き目的を持って私たちの人生に働きかけておられると信じるなら、心に安息と平安が訪れるのです。
イエスより愛をこめて
森を思い描いてごらん。青々と茂った、吸い込まれるような森を。中に足を踏み入れてあたりを見渡すと、以前に自然の中で感じたことのある、あの感嘆の念が押し寄せてくると思っていたけれど、どういうわけか今回は、鳥のさえずりが聞こえず、木々にそよぐ風も吹かず、小川のせせらぎも聞こえてこない。あるのは静寂だけで、動きも生気もない。森の中にいるけれど、これだと、壁にかけた絵を見るのでもいいくらいだ。
さて、もう一度同じ情景を思い描いてみよう。今度は、あなたの期待していたものが全てそこにある。明るくさえずる鳥の声、さらさらと流れる小川、木の葉のそよぐ音、髪をなびかせるそよ風、雨の後の森の匂い、ひんやりと漂う霧、苔に覆われた足元の小径。
この二つの森の対比は、わたしについて知っていることと、実際にわたしを知っていることとの違いのようだ。単にわたしについて聞いたり読んだりすることと、わたしと直接、個人的な関係を持つこととの違いだ。前者に活気はないが、後者は活気に満ち、興奮と命と愛にあふれている。前者には心を動かすものはないが、後者はあなたの五感を満たす。前者はあなたをより良い人間にしてくれるかも知れないが、後者はあなたを成熟した人間にする。
わたしの愛は、いつでもあなたを待っている。あなたもこの森に足を踏み入れて、わたしがあなたのために用意しているものを経験してみてはどうだろうか。あなたは、祈り一つでわたしに近づける。ただ心を開けば、わたしはそこにいるのだ。
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19世紀初頭、[北アメリカにおいて]クリスマスはほぼ廃れていました。例えば、タイムズ紙は1790年から1835年の間、クリスマスについて一度も触れていません。
1600年代にアメリカへ移住した人の多くは清教徒(ピューリタン)という厳格なプロテスタントの一派で、彼らはクリスマスがカトリックの祝日であり、祝うべきではないと信じていたのです。そのため、20世紀に入るまでの200年以上、アメリカのほとんどの人はクリスマスを祝うことがなく、祝われたとしてもひっそりと行われました。 オリバー・クロムウェル時代のイギリスでも、クリスマスは祝われていませんでした。しかし、クロムウェルの死から2年後の1660年、禁止令が解かれて、クリスマスは再び祝日に定められました。それでも、1600年代半ばから18世紀末までの約150年間、クリスマスは現代の私たちがしているようなやり方で祝われてはいませんでした。現在の祝い方の多くが始まったのは、ヴィクトリア朝になってからです。いったい何がきっかけだったのでしょうか。それは、1人の作家がクリスマスを主題に物語を書いたことに大いに起因しています。
1843年、イギリスの小説家チャールズ・ディケンズ(1812-1870)が『クリスマス・キャロル』を発表したのです。最初のクリスマスであるキリスト生誕の物語は別格として、『クリスマス・キャロル』は今までで最も人気があるクリスマス物語の1つでしょう。この中編小説の中で、チャールズ・ディケンズがクリスマスの理想の形として描いたものが、現代の私たちが思い浮かべるクリスマスの原型となっています。クリスマスツリーやキャロル、夕食や家族の集い、そしてプレゼント交換など、ちびっこティムの家族が祝うクリスマスの様子がそんなにもありありと描写されているので、それがイギリスのほとんどの家庭での祝い方だったのだろうと思うかもしれません。けれども、そうではなかったようです。少なくともこの小説の発表時には。
ブルース・フォーブスは、あるラジオ番組のインタビューで、このように語っています。「『クリスマス・キャロル』に書かれたことを読んだり聞いたりする時、私たちは当時のクリスマスの姿を見ているのではありません。私たちが見ているのは、こうあってほしいとディケンズが望んだクリスマスなのです。」 ディケンズ研究家のジョン・ジョーダンによると、19世紀初頭のイギリスには多くの失業者がいたそうです。「そんな悲惨な時代にあって、[ディケンズは]いわば産業革命の負の効果に対抗する力としての役割を果たすのが、クリスマスであると考えました。」というわけで、当時の祝い方に満足せず、より良いクリスマスの姿を生み出したチャールズ・ディケンズは、大いに感謝されるべきなのです。 あなたにとって特別な意味を持つクリスマスの祝い方を自由に編み出せばいいということです。愛の気持ちを込めて、愛する人たちのために何か素敵なことをしてみませんか。そうすれば、最高のクリスマスの祝い方ができることでしょう。 |
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April 2024
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